昔流儀な西洋音楽史観では、ベートーヴェン=古典派、シューベルト=ロマン派と、両者は時代もスタイルも異なるカテゴリーに分かれて置かれることになっている。しかし、よく見てみると2人はともにウィーンで活躍した人間であり、ベートーヴェンの没年が1827年、シューベルトが1828年と、同地域の同時代人だったことがわかる。若い頃の重要な師匠としてあのサリエリの名が上がる点も共通する。
2人の直接的な関係は、それを示す信頼に足る文書があまり存在しないため、いつ、どのような経緯で面会をしたかというレベルで明確に整理することはできないのだが、両者晩年の1820年代には何度かさまざまな形で接触が合ったのは間違いないようだ。
そうした彼らの晩年期、2人の間の音楽的な関係はどうだったのだろうか。両者がこの時期にそれぞれの傑作を残した弦楽四重奏曲の分野には、ヴァイオリン弾きのシュパンツィヒという、両者をつなげる人物が存在する。
彼はベートーヴェンの友人であり、貴族お抱えの弦楽四重奏(これは歴史上初のプロの弦楽四重奏団体と目されている)を率いてベートーヴェンの諸作品を初演したとともに、シューベルトからもロザムンデ四重奏曲を献呈され、初演している。
手紙等の記録に残る出来事を時系列的に並べてみよう。
ベートーヴェンがガリツィン候から3曲の新作弦楽四重奏曲作曲の委嘱を受けたのは1822年。しかしこのリクエストはしばらく放置された。
シューベルトは1824年春、長期のロシア滞在を切り上げてウィーンに戻ってきたシュパンツィヒの演奏を聞いて大いに感銘を受け、立て続けにロザムンデと死と乙女弦楽四重奏曲を作曲。この内、ロザムンデはシュパンツィッヒに献呈され、彼によって1824年3月に初演。
ちょうど同じ頃、ベートーヴェンはガリツィン候からの委嘱作に正面から取り組み始めたようで、出版社に同3曲の出版話を持ちかけている。
この3曲は、第12番Op.127が1824年末、第15番Op.132が1825年夏、第13番Op.130が同年内に完成、それぞれガリツィン候に献呈された。そして、その筆の勢いそのままに、多くの人が最高作と位置づける第14番Op.131が翌1826年に続く。
シューベルトの四重奏曲2作は、それまでの気楽な家庭用作品から突き抜けた傑作だ。また、ベートヴェンのこれらの四重奏曲、すなわち「後期弦楽四重奏曲」も、音楽史上にそびえる巨大なモニュメントであるのは間違いない。一見気ままな構成ながら各パート手抜きの無い綿密な書法、全編を彩る多彩な歌の合間に時折出現する不思議な音響……恐ろしい作品群である。
シューベルトにとってベートーヴェンはアイドルであり、ベートーヴェンの影響抜きにシューベルトの作品を語ることはできない。一方、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲などには、シューベルトのこの2大傑作の影響はまったく無いのだろうか。管理人は、例えばOp.131の終楽章の向こうに死と乙女の終楽章の姿をつい感じてしまったり、ともかくいろいろと想像してしまうのだが。
ベートーヴェン没後の1928年秋、病に伏したシューベルトの最後の願いを聞きいれ、死の5日前にシュパンツィヒ四重奏団が彼にベートーヴェンのOp.131を演奏した、との伝説が残る。