男尊女卑の風潮は近世の芸術全般において非常に根強いものがあるが、作曲家の世界も例外ではない。

一昔前までの音楽史に出てくる女性というと、「ロベルト・シューマンの妻」としてのクララ・シューマン、あるいはショパンと浮き名を流したジョルジュ・サンドぐらいのもの。女性作曲家という存在は語られることはなく、たまにシャミナーデなどの軽く小さめの作品を「珍曲」として取り上げるぐらいだった。

近年、CD会社や演奏家達がクラシックの世界における未開の地を積極的に開拓しようという動きの中で、ようやく過去の多くの女性作曲家が陽の目を見るようになった。商売目的の話とはいえ、けっこうなことである。

もっとも、この「女性作曲家」という言葉自体が差別的な発想に基づくものであることは否定しようがない。声と存在そのもので勝負する歌手や、人間の生理を綴ることで成り立つ小説家などと違い、作曲やアートなどは性差が本来あまり出てこないはずの領域だからだ。

要するに、世の中まだまだ、なのである。

が、クラシック音楽最盛期、事態はもっと強烈であった。

フェリックス・メンデルスゾーンの姉ファニーは弟に劣らぬ優れた作曲の才能を持っていた。しかし、両親は彼女が作曲の道に進むことに反対。彼女の作品が弟フェリックス名義で出版されている例もあるし、あろうことか、フェリックス自身もファニーの作品が出版されないように手をまわすようなことまで行っている。

自身が優れた作曲家であり指揮者であったフェリックスのこと、姉の才能を十二分に理解した上で、敢えて積極的に音楽史から抹殺しようとしたわけだ。姉の没後、激しい喪失感のもと、彼女の残したピアノ三重奏曲ニ短調に自ら手を入れて出版したのは罪滅ぼしの気持ちからか。この没後発表作に与えられた作品番号は、なんとたったの11だった。

19世紀フランスの作曲家ファランは若くからピアノと作曲の才を周囲に賞賛され、当時としては異例ながらパリのコンセルバトワールでピアノの教授の地位も得た。しかし、学内での給料のレベルは常に同キャリアの男性よりも低いものだったという。彼女は1849年の九重奏曲変ホ長調の成功により作曲家として世間的に大きい名声を得ることができたが、それを利用してコンセルバトワールに交渉し、ようやく同僚の男性達と同じ給料レベルを認めさせたのだった。

ピアノ曲や室内楽曲は、こうした女性の作曲家の再発見が比較的進んできている分野であり、当弦楽館のデータベースにも若干の収蔵データがある。だが、出版されることなく眠った作品はまだまだ多いはず。今後さらに新しい発見により、われわれの音楽生活を豊かにしてくれることを願う。